食と環境 その3 食品リサイクルと日本人の誠
食品のリサイクルをしようということになったのは、いつ頃のことだったでしょうか。日本ではもともと食べ残しというのは悪いことで、私が小さい頃はご飯粒一つでも残すと怒られたものでした。
サンマを食べる時は骨に付いた肉まできちんと取って食べ、その後は骨を焼いて食べたり、残ったものは煮凍りにして次の朝、食べたりしたものです。
もちろん現在の社会では食料が溢れているわけですから、そんな食べ方をする時代が去ったことは確かです。でも食品リサイクルが始まる時に、あるホテルから次のような話があったことを思い出します。
「私のホテルではレストランの食材のうち90%が余ってしまいます。だから食品リサイクルをして社会に貢献したい」
このように、食品のリサイクルという話が出てきたのは、日本人が昔のように食料を余らせることは良くないという考えが無くなったことによるのでしょう。食べ残しを肥料にするということは悪いことではありませんが、その食品が全部新しい食品になるわけではありません。私もよく計算をしておりませんが、おそらく100分の1とか1000分の1ぐらいしか新しい食べ物にはならないでしょう。
食品リサイクルにはもう1つ大きな問題があります。それは各家庭から集めた生ごみの中には汚いものや危ないものが多く入っているということです。つまり、生ごみの中には腐敗したり、毒物に変わったりしたものが多く含まれています。そのうちの分解していくものもありますが、非常に分解しにくい毒物も入ってきます。
さらに、電線、電池、割れた蛍光灯なども少しずつ入ってきます。銅、水銀、カドミウムが長い間、「食品リサイクル」の名のもとに畑に撒かれ、蓄積していくのですから、日本の畑はどうなるでしょうか。
食品リサイクルにはもう一つ大きな問題があります。
日本は食料自給率が非常に低い国として有名です。カロリーベースで自給率は40%しかなく、このように食料自給率の低い国は先進国では世界で日本だけです。さらに、耕地面積ベースでは自給率はわずかに25%にしかすぎません。つまり、石油危機や気候変動によって食料が輸入できなくなると、日本人は今の4分の1の食料で生きていかなければなりません。
さらに、このように日本は多くの食料を輸入していますが、食べる量の約30%を食べ残しているのです。大量に食料を輸入し大量に捨てている国が、なぜ食品リサイクルをしなければならないのでしょうか。
またさらに広く農業のことに目を向けますと、イギリスやフランス、アメリカなどの先進国ですら農業に従事している人の平均年齢は40歳程度です。その中で日本だけがすでに60歳を超えています。日本の農業がひどい状態であること、日本人が農業を軽視していることがよくわかります。
日本人は食料をお金で買えばよいと思っていますが、世界の人から見ると札束で人の顔をたたくようなものだと思います。確かに日本人はお金を持っていますが、だからといって世界中から食料を買い、そのほとんどを捨てるという生活は世界の人から見たらどう見えるでしょうか。
さらに踏み込んでみましょう。食品リサイクルというのは食べ残し側の論理なのです。特に東京の人は自分たちで全く食料を作らずにお金で買い、そして捨てています。あまりに自分たちの食べ残しが多いのでリサイクルしようという事になったのですが、実に自分勝手な論理です。
でも人の食べ残しを受け入れる農業の方はどうでしょうか。各家庭から来る生ごみは品質の良いものでもなく、しかも素性もはっきりわかっていません。それを押しつけられて畑が汚れていくのは農業としては耐えられないことでしょう。
おそらく何か技術ができて、台所の生ゴミを処理して下水に流せるようになったら、農家への供給は止まるでしょう。おそらく今までの東京の人の考え方ですと自分が中心ですから、自分が生ごみを出している時は食品のリサイクルが大切だと言い、自分が出さなくなるとそれまで我慢して使ってくれた農業のことなどは考えないと思います。
たしかに、人間が自分のこと以外に、他人のことを考えるのが大変に難しいことはわかります。しかし現在の食品リサイクルとは、あまりに出す方の論理だけでできているのではないかと思います。食品リサイクルはあくまでも「受け手」、つまり農業に視点を当てて考えなければなりません。農業として食品リサイクルが適切かどうかということを国民が考え、そして食品リサイクルに取り組むなら少しは良いかもしれません。
でも、私はそれも感心しません。私たちが手にする作物というのは、第一に生物の命を頂くということにほかなりません。そして、地球では約8億人の人たちが現在でも飢餓の状態にあります。その人たちのことを考えれば、食べ残したものをリサイクルしていると言って自己満足するというのはあまりにもおかしな考えだと私は思うのです。
環境問題というのは、力のあるものの勝手通りにし、自分だけが良いということではありません。視野を広く持って多くの人たちが一緒に楽しく過ごしていくような環境を作ることが大切なことなのです。日本人の道徳心を根本から破壊する食品リサイクルは一刻も早く止めたいものです。
おわり
科学の時間 (2) 理想気体の状態方程式 パート2
先回の検討を受けて、
PV = ST
が理想気体の状態方程式で、
S = 1
という状態が理想気体であると、とりあえず仮定してみる。
科学では仮定はどんなに乱暴でも良い。その仮定が間違っていれば否定されるだけだ。誰にも迷惑はかけない。だから、とりあえず理想気体のエントロピー(S )を1.0としてみる。
エントロピーというのは乱雑さを表す尺度である。つまり温度は振動の強さであり、振動は形が横を向いていても縦を向いても同じだが、みんなが横を向いている方がエネルギーは小さいし、バラバラの方がエネルギーは大きい。だから同じ温度でも「バラバラ度」がいる。それがエントロピーであるとされている。なぜ、温度にエントロピーを乗じるのかはまた別の機会に整理をしてみたい。
ところでエントロピーはすでにBoltzmannが、
S = k ln Ω
という式を出していて熱力学の基本式の一つである。
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これを普通の尺度で考えると、ボルツマン定数k は気体定数R をアボガドロ数NA で割った値だから、
で、R はJ/(mol・K)で、NA は個/molだからk はJ/Kとなる。つまり一つの分子や振動子が持つエネルギーをE とすると、
であり、温度T のN 個の粒子群のエネルギーの係数がk であると考えても良いし、エネルギーと温度を結びつける係数としても良い。k をR を使って少し変形すると、
この式はわかりやすい。気体とか理想気体ということではなく、ともかくある粒子の集まりを考えると、温度に依存するエネルギーはnRT であるということを言っている。このことは次のようにも考えられる。
PV = nRT
であるということはnRT の方は理想気体に関係なく、圧力と体積のかけ算、つまり力学的エネルギーの方がPV と書けるのが理想気体ということになる。
そこでもう一回、気を取り直して基礎から出発する。まず、温度の尺度を変えれば容易にR = 1になるので、k はアボガドロ数の逆数になる。そうするとエントロピーは、
となり、乱雑さのΩの対数をアボガドロ数で除した形をしている。つまりエントロピーは、mol単位で示すからである。
たとえばAとBの2つの状態を取る粒子群がある場合、粒子が一つならΩ = 2, 二つなら22 = 4だから、N 個なら2N である。1molの粒子群がそれぞれ2個の場合を取るとすると、
つまり、粒子が2つの場合を取る時のエントロピーの値はln 2 = 0.693となることを示している。
不思議なことだ。ボルツマン定数k は、
E = NkT
であるから、molとは関係が無い。1個の振動子のようなものを考えると、温度がKで、エネルギーがJなのでそれをつなぐ係数として、単位がJ/Kである換算係数に過ぎない。
換算係数にしか過ぎないのにmolが関係するのは温度の単位が定まらないからである。kT を温度の単位にすると、1.38×10-23 Jを1℃とすることになる。ものすごく小さな単位だが、1つの粒子がこのエネルギーを持つ温度だから、この程度になる。
つまり温度は強さを示すもの・・・示強性変数・・・だから、mol当たりならR になり、1分子当たりならkとなる。いずれも温度の刻みは同じである。問題はそこにあるのではなく、molという一つの固まりを基準にするかだけである。
1 Kを8.314に分割すると、1/8.314 Kになる。そうすると、今、1KのエネルギーはR = 8.314 J/(mol・K)をかけて8.314 J/molのエネルギーになるが、温度刻みを分割しておけば1/8.314 Kになるので、そのままエネルギーである。それにn 、つまりmol数をかければJになる。
同じように、1Kを1.38×10-23に分割するとkT はこの細かさになるので、1分子のエネルギーは単にT になる。つまり温度の刻みを分子に合わせるとアボガドロ数が出てくることがわかる。
つづく
環境よもやま話 その2 不法投棄
数年前に九州のある市の環境行政のお手伝いをしていたことがあります。ある時、その市の環境部の方が私を山の方に連れて行き、そこで山の斜面に30個ばかりの廃家電が捨てられているところを見せてくれました。
周囲はスギ林で、そこに細い道路が通っています。確かにどう見ても人通りが少なく、お金を払っていらなくなった家電製品をリサイクルに出すくらいなら、この山の中に捨ててしまえば、リサイクル料金の3500円程度が浮くわけですから捨てる方の気持ちもわからないこともありません。
しかし家電製品をリサイクルすることが、現在では法律で決まっていて、国民としては守らなければならない義務の一つです。だからそんなことを言うと叱られるでしょう。
「武田先生、ひどいでしょう。」
とその市の環境部の方は私に言いました。私は、
「そうですね。」
と言いましたが、それだけではちょっと物足りないと思い、少し言い過ぎかもしれないと思いながら次の言葉を付け加えました。
「でも私が見るところ、ここら辺一帯は全部ごみ箱のように思います。このスギはずいぶん前に植林されて整備もされず使われてないわけですから形式的にはごみ箱かもしれません。ごみ箱に廃家電を捨てたのではないのですか?」
私は、国や自治体が山全体を捨てているのに、個人が家電製品を捨てるのが悪いと言うのはどうかと思ったのです。
私は、この理屈が少し飛躍していることはわかっていました。でも環境問題というのはこのような事が本当に多いのです。表面上は大変に綺麗事を言っていますが、その実態は必ずしも言った通りでないということが、この「家電製品の不法投棄」と「捨てられた山林」によく表れていました。
家電製品のリサイクルには大きな矛盾があります。家電製品のリサイクルが始まる前には、全国平均で1台当たり500円で処理をしていました。ところが家電製品のリサイクルが始まると、一気にその7倍の3500円になりました。日本の国民はおとなしいので500円が突然、3500円になっても「環境に良いのなら仕方がない」と諦めました。
しかし同じ事をするのに、500円が3500円になって環境に良いはずはありません。差額の3000円はどこに行ったのでしょう。そしてそれまでは自治体が500円かけて処理していたわけですから自治体が使っていた税金は市民に還付されたのでしょうか。
不法投棄が良いとは決して言えませんが、不法投棄を咎めるなら咎める人が悪いことをしていないということが前提だと私は思うのです。
もう一つは森林の問題です。日本では森林を守ろうということで紙をリサイクルしています。小学校では大まじめにアマゾンの森林をどう守るかという教育が行われています。
しかし環境というのはもともと自分たちの国や自分たちの周りの環境を守るのに力を注ぐのが第一です。そしてもし自分たちの身の周りの環境を守ることができれば、そこで初めてアマゾンの森林を心配しても良いと思います。
日本の森林は国土面積の実に70%程度を占め、森林の多い県では80%に達します。つまり、国土の3分の2が森林ということですから、日本人は森林をとても大切にしなければいけないということがわかります。
しかし最初に話題に出した九州のある市のように森林は戦後にスギを大量植林した後、ほとんどそのまま捨てられています。間引きや枝打ちもしていないので森林は荒れ放題です。しかも天然林ではないので生態系も破壊されています。
天然林は広葉樹が多いので、そこでは木の実が生り、動物が繁殖して鳥がさえずり、全体としての生態系をなしています。しかし人間が植えた植林はそういうことはありません。日本人は人工林を作るのですが、生態系にはまったく注意を払わないのです。
紙をリサイクルする目的は森林の保護といわれますが、日本人は自分たちの森林を保護せずに、どこの森林を保護しようとしているのでしょうか。そういう全体的な道徳の破壊、環境倫理の破壊というものが不法投棄を招いている、もし不法投棄を取り締まろうと思うのだったら、取り締まる側が環境を守らなければならないと私は思うのです。
おわり
誰でも儲かるお金の話 データ編(5) ― お米の値段と小学校の先生の初任給 ―
お金を理解するために、まず消費者物価についてデータを示しながら話を始めました。そして消費者物価を決める一つの原因として原油の価格があることを先回、示しました。
今回は全く別の視点から、日本人が生きていくのに必要なもの、お米の値段に注目してみました。お米というのは、言うまでもなく日本人が生きていく上で無くてはならないものですから、白米の値段、例えば10キロの袋に入った白米の値段は日本人の生活そのものの価格を表すと言っても過言ではないでしょう。
つまり、「白米の値段」は「お米を作るためのコスト」というよりもむしろ日本人が生きていくための値段とも言えるわけです。例えば日本人の賃金が上がると白米の値段は経済的理由で上がるでしょうし、逆に日本人の賃金が下がれば白米の値段は無理矢理にでも下げなければならないからです。
つまり、原油の価格はアラブの思惑で決まり、白米の値段は生きることで決まると言うことですから、「消費者物価」というものは作るためにいくらかかったかだけではなく、別の力が働くということも教えてくれます。
さて、それでは白米はどういう変化をしてきたのでしょうか。この変化を江戸時代から明治に変わった明治維新、つまり1860年代から1980年までの120年間という長い期間をとって調べました。
まず下のグラフは「差のグラフ」ですが、1940年、つまり太平洋戦争が始まる前まで「差のグラフ」では白米の値段も小学校の先生の初任給もゼロを這っています。
ここで小学校の先生の初任給を白米の値段と比較しながらグラフを作ったのは、小学校の先生も日本人ですからお米を食べて生きているわけであり、小学校の先生の初任給とお米の値段の変化はあまり変わらないはずだということを検証しながら進むためです。
戦後、お米の値段はどんどん上がって1970年には10キロのお米は1500円になり、その時の小学校の先生の初任給が3万2千円でした。その後、石油ショックが起こり物価が高騰しますが、それと共に給料も上がって、お米の値上がりと小学校の先生の初任給の上がり方の線は重なっています。
そして1980年には、お米は10キロ当たり3200円となり、小学校の先生の初任給が10万2千円となります。
でも、このような長い期間のものになると「差のグラフ」では期間全体にわたる変化がわからないので、次に同じものを「比のグラフ」で示します。
比のグラフでは、明治維新から1980年までの約120年間の様子がよくわかります。
まず、太平洋戦争直後の超インフレ時代を除くと、明治維新から太平洋戦争が起こるまで、そして太平洋戦争が終わって一段落してからの30年、この二つの期間は日本社会も世界の情勢も全く違うにもかかわらず、お米の値段と小学校の先生の初任給は、ほとんど同じ傾きで変わってきたということがわかります。
この間、一年間にどの程度の比率で変わってきたかをグラフで「比を示す線」を示しました。白米のほうは1.043, つまり一年に価格が4.3%だけ上がっていく線です。そして小学校の先生の初任給の方は1.076倍ラインで、こちらは1年に7.6%だけ上がっていったことを示しています。
前回、消費者物価全体が一年に4.3%上がっていることを説明しましたが、さすが白米だけ合ってピッタリと4.3%ずつ上がっています。だから、貯金していて利子が4.3%あれば、いつでも同じ生活が出来ることがわかります。
でも、社会はすこしずつ進歩して生活も楽になっています。白米で言えば昔はエンゲル係数が高く、ご飯を食べることができればそれで満足でしたが、最近では食料もお酒も贅沢になりましたし、テレビや自動車を持つのも当たり前の時代になりました。
「生活が豊かになる」というのは、給料の上がり方のほうが物価の上がり方より大きいことを意味しています。給料が7.6%, 物価が4.3%ですから、その差額、つまり3.3%は「生活が豊かになる」分であるのです。
もし、年金や貯金で生活をしている人がいたとします。その人は持っているお金を利子が7.6%のところに預けないと、毎年、少しずつ「貧しい生活」になっていくことがわかります。「そんな利子をつけてくれる銀行はない」と言われるでしょう。そこに、「お金の秘密」と「庶民を考えない経済政策」があるのです。
物価や年金の基礎的な知識を何回か終わったら、その秘密と政策を理解して、お金を失わないようにする方法に進みたいと思います。
つづく