Jekyll&&Hyde

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私の環境の五原則

 私は「リサイクルしてはいけない」と言っています。それは私の環境の五原則を守るためなのです。その環境の五原則とは次の5つです。

1) ものより心を大切にする。
2) 資源は大切に、ごみは少なく。
3) 子孫は希望である。
4) 安全な社会が第一。
5) 日本に誇りを持つ。

1.  ものより心を大切にする。

 「ものより心を大切にする」というのが私の考え方の基本で、それを実行するためには、身の回りのものを少なくして、愛用品を置くことだと思っています。論理的にだけ考えれば、ものをいくら多く持っていても、心は別ですからそれを大切にすることができそうですが、実際には人間はものに囲まれると心を失いがちになります。

 多くの宗教家が言っていますようにお金はもともと人間の為にあるのですが、時が経つとお金は人間の心を虜にして破滅させていくものです。本来はお金があるということは別に悪いことではなく、そのお金を使って心を大切にすることができそうなのですが、実際にはできないというのが人間の不思議なところです。

 あの有名なインドのガンジーが「「心というのは落ち着きの無い鳥のようなものであると私たちはわきまえています。ものが手に入れば入るほど、私たちの心はもっと多くを欲するのです。そして、いくら手に入っても満足することがありません。欲望のおもむくままに身を任せるほど、情欲は抑えがきかなくなります。」と言っています。あれほどの偉人が人の心はお金の虜になると繰り返し言っておられ、私はそのことが本当に正しいことだと思います。次に示す「愛用品の五原則」は私の「エコロジー幻想」という本に書いたものです。

一、 持っているものの数がもともと少ないこと
二、 長く使えること
三、 手を焼かせること
四、 故障しても悪戦苦闘すれば自分で修理できること
五、 磨くと光ること、または磨き甲斐があること

 もうすでに日本の社会にはものが溢れていて、今以上のものを獲得しても、私たちが幸せになるということはほとんど無いように思われるのです。一方では孤独で年金だけでは生活が苦しいお年寄りや、生き甲斐を持てない若者、そして先進国では自殺者が一番多い日本、私たちの社会はせっかく獲得した豊かな社会を活かすことができないでいるように感じられます。

2.  資源は大切だが、誰のために?

 「資源」と一言に言いましてもその種類は様々です。一般的には工業資源を指しますので、石油・石炭・鉄鉱石などです。このような資源は日本にはほとんどありません。でも、海の塩のようなものを別にすれば、石油や石炭はもともと動物や植物の死骸が地中に埋まったものですから限りがあります。私たちの生活で言えば「貯金」のようなものですから使い終わればそれで終わりです。

 事実、かつて日本は「資源大国」でした。日本の関東地方や信越地方には足尾銅山佐渡金山があり、中国地方には石見銀山別子銅山がありました。日本のこれらの鉱山も現在ではすべて掘り尽くされてしまいました。現代では石油がもっとも大切な資源ですが、石油・石炭・天然ガス・鉄鉱石はいずれも日本にはありません。「地球環境」に反するようなことで、非常に言いにくいのですが、日本に無い資源を大切に使っても外国の人がどんどん使いますから、日本が節約したから資源が長持ちするというわけではありません。

 それでは「日本が世界に呼びかけたら良いのではないか」と思われるかもしれませんが、世界の中で日本は資源を一番多く使っている国の一つなので、そんなことを言っても説得力がありません。つまり、日本が資源を節約してもしなくても、呼びかけても呼びかけなくても資源は一定のペースで無くなっていくのです。

 地球環境を守るのも大切なことですが、我々は当面、日本の環境を守ること、さらに地域の環境を守ることを優先した方が現実的だと私は考えています。その意味でどのような「資源を節約」をするのかということをもう少し具体的に言うと「如何にして子孫に資源を残すか」ということになります。

3. 子孫は希望である。

 もしも私たちの世代で人類が絶滅するか日本人が全滅するなら、我々は環境を考える必要もありませんし資源を大切に使う必要もありません。捨てるもの汚いものは太平洋の真ん中に持っていって捨てても100年ぐらいは捨て続けられるからです。つまり、私たちが今、環境が大切だと言っているのは、私たちの世代だけではなく私たちの子供や孫たちのためでもあるのです。

 先にお話ししたように日本にはほとんど石油・鉄鉱石・銅などがありません。そしてこれらの工業資源は鉄を除いて50年ぐらいしか保たないと言われています。このままリサイクルなどをやっていたら私たちの子孫はひどい目に遭うでしょう。現在、石油や鉄鉱石がまだある状態で、自動車や家電製品のメーカーの人が外貨を得てくれるおかげで、外国の資源を獲得することができているだけです。

  私は「外国の」資源が乏しくなった時の準備を子孫の為にやっておきたいと思っています。一つは現在の日本で使っている資源を国内に貯めておくこと、第二には食料が不足してきた時でも大丈夫なようにしておくことです。

  資源を貯めるためには鉱山を作らなければなりません。現在、外国から輸入している資源を我々は自動車とか、家電製品などとして使っています。使い終わったものが多い所に集めて焼却し、体積を減らして人工的に作った鉱山に入れておけば、将来、外国に資源が無くなった時に、私たちの子孫はそれを取り出して使うことができます。分別するとどうしてもそこで多くの資源を失います。できるだけ分別せずに集めて焼却し、残りをすぐに使わずに鉱山に貯めておく、そうすれば「外国の資源を一旦使って、将来の子孫の為に資源を残す」ということができます。現実に、現在の焼却炉はそれができるようになっています。そしておそらく私たちが子孫の為に資源を残しておく方法はこれしか無いと私は考えています。

 もう一つは食料の問題です。日本の食料自給率は表面上は40%となっています。しかしこれは石油が大量に供給されて、それを元に化学肥料を使ったり、トラクターを使うというようなことが前提になっています。食料が無くなるのは、石油が無くなるからであり、石油が無い状態での食料自給率は25%程度だと考えられます。

 世界の先進国で、日本ほど、食料自給率が低い国はありません。現在は石油が大量にあるので、それで自動車や家電製品を作って外貨を得て、その外貨で食料が買えます。しかし、食料が無くなるということは石油が無くなる時であり、石油が無くなるということは、自動車も家電製品も日本では作られなくなるということを意味しています。でも、日本は気候に恵まれ水も豊富なので国土を工夫して農地を作っておけば食料自給率を回復することができます。

 ところが現状はまったく逆になっています。例えば建築リサイクル法というのがあり、壊したビルの瓦礫で路盤材を作り、徐々に日本の土を無くしていっています。今は石油がありますから壊したビルの瓦礫をトラックで運び大量に地面をコンクリートや瓦礫で埋めることができますが、石油が無くなっていざ畑に戻そうとしても子孫が自分たちの手で取り除くのはとても大変なことです。我々はそんな日本を子孫に残そうとしているのです。土地が少ないのですからしっかり環境アセスメントをして海を埋め立てていく方がずっと「環境には良い」と考えられます。

 食品リサイクルも日本の畑を壊す原因になっています。食べ残しの中には、それ自体に汚いものが混じっていることと銅線や電池などが入ることがあります。有害な元素は腐食もしないのでそのまま畑に残ります。食品リサイクルを進めることは日本の畑にもっとも危険なことと言えるでしょう。

  もともと食べ残しが多いから食品をリサイクルするという考え方自体が環境になじまず、食べ残しを少なくすることの方が大切と思います。

 廃棄物は分別せずに焼却し、体積を20分の1にして金属は地域の鉱山に貯めて子孫へのプレゼントとし、スラグは川砂の代わりに使えば廃棄物はゼロになります。

4. ごみを減らしたい。

 私たちは大量のものを買って使いますが、その始末は好みません。だから日本の各自治体ではごみが増えて困っています。ごみが発生すればそれを必ず捨てるところ(廃棄物貯蔵所)がなければなりません。捨てるところを作るためには土地が必要ですし、有害物も心配です。だからできるだけごみは減らさなければなりません。

 ごみを減らさなければならないということについては、日本人のほとんどが異議は無いと思います。問題は、ごみの減らし方です。一つはごみそのものを減らすということで、これは買うものを減らさなければなりません。買うものを減らすということは、お金が手元に残ってしまいますので、それをどうするかという、また別の厄介な問題になります。お金が余ったらそれを銀行に預ければ良いように思いますが、そのお金は銀行の金庫にそのまま保管されるわけではありません。そのまま企業に貸し出されたり、国が使ったりしますから、環境という意味では同じことになります。

 次に社会が考えたのがリサイクルです。ごみの量自体が減らないのなら「ごみをもう一度使えば良い」と考え、「ごみを分別すれば資源」という言葉も作られました。確かに、素人感覚から言えば、ごみをもう一度使えばごみの量が減るように感じられます。でも実際はそうではありません。例えばペットボトルのリサイクルを例に取りますと、リサイクルが始まった平成9年度にはペットボトルは20万トン使われていましたが、7年間みんなでリサイクルをして、結果的にはペットボトルの使用量はかえって50万トンに増えました。ペットボトルが増えた分とペットボトルをリサイクルするために発生するごみを計算しますと、だいたい170万トンくらいになったと考えられます。

  リサイクルは人間がするので科学ではないように見えますが、実は科学なのです。そして科学というのは常識とはちょっと違うところがあります。例えば江戸時代にペリーが黒船に乗って日本へ来た時に鉄でできた船が海に浮かんでいるので、びっくりしたものです。飛行機が空を飛んだ時も「なんであんな重たいものが空を飛ぶのか?」と皆不思議に思いました。科学というのは常識とは違います。リサイクルで言えば、鉄、銅、貴金属は繰り返し使えるのですが、プラスチックは繰り返し使うことが出来ないので焼却するしかありません。もったいないので使いたいという気持ちは私自身も同じですが、使えないものは使えないので仕方がありません。

 今では忘れられたことですが、ペットボトルのリサイクルをするかしないかが議論されていた頃、リサイクルに反対していたのは環境運動団体でした。その人たちは環境を大切に考えていたのでリサイクルすると消費量が増えて、さらに大量消費大量ごみの時代になると考えたからです。これに対して多くの新聞社がリサイクルの賛成にまわって世論を作り、リサイクル法が成立しました。リサイクルに反対した環境運動団体は正しかったのです。

 最近リサイクルが進んできたのでごみが少なくなったという報道が多いように思います。これはリサイクルしたからごみが減ったのではなくて、焼却が進んだ結果です。リサイクルをするまでは多くのプラスチックが埋め立てられていました。その頃にダイオキシン問題のため、プラスチックを焼却炉で燃やせないと言われリサイクルが始まりました。でもダイオキシンや焼却炉の技術的な問題などはすぐ克服できます。実際それが克服されたので、現在では外国に持ち出しているものを別にすると、国内ではペットボトルの約95%、ペットボトル以外の容器包装プラスチックの99%が燃やされています。

 つまり、リサイクルが始まってごみの量が減ったと言うのはその通りなのですが、何故ごみの量が減ったかというと焼却しているからです。決してリサイクルして、材料が再び使われているからではありません。写真は、最近私が撮った写真で、ある市でリサイクルした材料を再び混合して焼却しているところです。ほとんどの日本の自治体がそうですが、市民が一生懸命分別したものを結局は全部集めて焼却しています。

 一旦、リサイクルとして出されたごみですから焼却してもリサイクルと言っていますが、こんなことをするのなら最初から分別せずにまとめて焼却した方が良いに決まっています。分別すると資源の回収が難しいのですが、全部一緒に焼却すると資源は回収できます。

 もう一度、初心に返って「分別すればごみ」と言い換えることが大切でしょう。

5. 日本に誇りを持つ。

 リサイクルが始まる少し前の日本は”Japan as No.1”と言われ、戦争で敗北した傷が癒えて日本人としての誇りが芽生えた時でした。日本は他の国を見習うのではなく自分で先頭に立っていたのです。

 ところが環境問題が起こってから日本人は急にドイツに学ぶことになりました。外国の良いところを学ぶことは別に悪いことではありませんが、国民の出すごみの量はドイツの方が多かったのです。ごみばかりではなくエネルギーの使用量も資源消費量も日本の方が優れていました。

 しかし、環境を専門とする人がドイツに行き、「ドイツは素晴らしい」と言いました。日本人はドイツ人に対してコンプレックスを持っていたので信じたのですが、リサイクルをしていない日本の方が、リサイクル先進国のドイツよりごみも資源消費量も少なかったのです。つまり、ドイツに学べということはごみを増やせということだったのです。

 最近日本でも凶悪な犯罪が増えてきましたが、それでも世界で一番犯罪発生率もが少ない国であることは確かです。環境で一番大切なのは安全に生活できるということであり、そのためには地域の人たちが十分なコミュニケーションを取れるということが肝心です。ごみ問題も大事ですが、みんなで監視したりごみを分別してないと言ってお隣を非難したりするような地域になると安全も損なわれます。朗らかで楽しい地域を作ることが犯罪防止にも役立つと思います。

  私はどうせごみを分別してもまとめて焼いてしまうのですから、最初から分別せずに楽にごみを出して自治体も楽にごみを集め焼却して将来のために取っておくというシステムをどこかの自治体が始められたら良いのではないかと思います。その方が税金もずっと安くなりますし、ごみを出す方も気楽になります。また、リサイクルを進めれば皆がものを大切にするようになるわけではないということがすでにペットボトルのリサイクルでよくわかっているわけですから、非現実的な考えを捨ててより将来的な方向に進んでもらいたいと希望します。

おわり