Jekyll&&Hyde

昨日は晴れ、今日は朝。

「環境にやさしい生活」

 人類の活動が自然を上回ったのが1940年代であった。それは1950年代になり、ロンドンスモッグや水俣病という形となって現れてきた。しかし、急速な環境技術の発展によって公害は克服され、現在では日本の大気、水質、食品の安全など主要な環境指標はいずれも以前のレベルに戻っている。
 端的に言うと、我々の現在の生活は日本の環境を破壊していない。日本人は、毎年20億トンの資源を使っているが、それでも日本には世界でも希な技術力があるので、例えば同じGDPあたりで比較すると製品を作るために使うエネルギーの量は世界でも最低であり、日本人が出すごみの量もドイツ人に比べて2分の1である。

 ドイツ人はまったく手本にはならない。

 でも私はこのようなことが長く続くとは思っていない。毎年毎年、経済成長を続ければエネルギーも物質も、そして活動そのものも拡大するので、自然との差はますます広がっていく。それがどういう形で表れるかははっきりしないが、例えば地球温暖化(本当は気候変動)などはその一つであろう。

 私は将来の日本人、つまり私たちの子孫は「環境の破壊された国土」で生活するだろうと思っている。それを防ぐためには、私達自身が「環境にやさしい生活」をしなければならないと考えている。別の表現をすれば「環境にやさしい生活」とは、現在の環境を改善するための生活ではなく、将来の我々の国土や郷里を守るための生活というのが良いだろう。

 現在の日本人は、世界一に近い給料をもらい、平均寿命は世界一である。水道水を飲めるのも日本、暑さや寒さで死ぬ人がほとんどいないのも日本である。ごみの問題がクローズアップされているが、これも今のところは大丈夫である。

 さて、ここまで全体のことを見渡しておいて、環境にやさしい生活というものは何かについて考えると、1)ものをあまり使わない、2)二酸化炭素やごみをできるだけ出さない、3)毒物をまき散らさない、4)弱い人を大切にして人に迷惑をかけず、動物や植物などのことをよく考える、などが考えられるが、自分は果たしてそれができるだろうかといつも考えている。

 そして、私はなかなかその回答が得られないでいる。

 私が1ヶ月に使うお金はだいたい30万円ぐらいだ。この30万円の中には、毎日食べる食事や飲み物、風呂に入る時に使うガスなどがあるが、それに加えて私が乗っている車や住んでいる家、そして交際費も含んでいる。つまり、すべての生活費を合計して1ヶ月30万円使っている。

 まず、地球が温暖化するから二酸化炭素の排出を抑制するために省エネルギーが大切だ。だから電灯をこまめに消そうと呼びかけられる。事実、名古屋大学工学部の建物の廊下も電気が消されているから真っ暗である。そこで、家でもできるだけ電灯を消そうと心がけ、暖房ももったいないからセーターを着て部屋の温度を上げないようにしている。

 そうすると電気代が浮く。今までだいたい1ヶ月1万円払っていたものが8000円になったので、2000円節約できた。節約は大切だと言う。

 私は昔からタクシーが好きで10分も歩くところでは常にタクシーに乗る。特に名古屋では夜間のひったくりが多いので、夜帰る時などは駅から官舎までたった10分も歩けばいいのにタクシーに乗る。タクシーの運転手さんには「近いところで悪いね」とわざわざ断って乗る。

 でも「体に良いからできるだけ歩きなさい」と言われ、タクシーに乗るよりか歩いた方が環境に良いかなと思って歩くようになった。おかげで体の調子も良いし、1回610円のタクシー代が浮く。1ヶ月にどんなに少なくとも10回は乗っていたから6100円は節約できたことになる。

 ペットボトルを買うとペットボトルのごみが出る。そうかといってリサイクルすると、新しい石油からペットボトル1本を作るよりも3.5倍の石油を使う。だからリサイクルはできない。そこで、1度ペットボトルを買った後は、家でお茶をペットボトルに詰めたりしてだいたい平均10回ぐらい使う。そうすると最初のペットボトルには150円必要だけれど、その後はほとんどタダである。かかってもせいぜい10円ぐらいだろうから、最初に買う150円と、次回以降の10円×9回の90円を足して240円だ。

 平日はいつもペットボトルを買っていたので、1ヶ月に20回で3000円。それにお茶を詰めると1ヶ月に2回で済むから480円になる。差し引き2520円の節約である。

 私は、太陽の光でできる自然のものを大切にするタイプである。だから1度買ったシャツとかセーター、背広などはかなり長く使う。流行が変わっても環境を守ることが大切だと思ってあまり買い換えない。だから洋服代というのもほとんど要らない。普通の人は、1ヶ月に2万円ぐらいの洋服を買うと言われるが、私は2000円にもならないのではないかと思う。そうすると洋服代だけで1カ月で1万8000円浮く。

 あれやこれや。電灯をこまめに消して2000円。タクシーを止めて6100円。ペットボトルで2520円。それに洋服を節約して1万8000円だから、合計して2万8620円を節約したことになる。つまり、私の1ヶ月に使うお金が30万円から27万円になったことを意味している。

 3万円が余った。

 私は15年ぐらい前の車に乗っていて、その車がとても好きだ。周囲から見るとどうかと思われるかもしれないが、私には愛着のある車で何も不満は無い。せっかく努力して3万円余ったのだから、それでガソリンを補給して木曽川の辺りに遊びに行きたいとも思う。

 でもそんなことしたら、せっかく節約したのに、ガソリンを買って自動車を動かし、世の中に排気ガス二酸化炭素を撒き散らすこととなり、今までの努力が報われないことになる。

 だから、その3万円でドライブに行くことはできない。

 私はたまに飲みに行くのが好きだ。そこでその3万円を使って4回ぐらいは飲みに行けるのではないかという希望が湧いてきた。今まで1週間に1回行っていたのを、1週間に2回行ける!素晴らしい!!

 でも飲みに行くということはどういうことだろうか。やはりそこでも電気を使い、クーラーを使い、美味しい魚を食べるということは漁船が燃料を消費することだろう。自分の目に見えても見えなくても日本の子孫への影響は同じだ。

 もし、私が飲みに行かなければ生きていけないというなら、それも必要なことだが、私は栄養を十分に取っているし、アルコールも十分だ。私が4回余計に飲みにいけば、成人病になる可能性も増えるし、また肝臓も悪くなるだろう。それに外に飲みに行くということは「家庭環境」を悪くする可能性がある。

 結局、3万円を余したけれども、何に使うこともできないので銀行に預けに行った。銀行に預ければその3万円を使わないのだから環境に良いように思える。30万円使って生活していた私が27万円で済むのだから、その分、物質の使用量もエネルギーの消費量も減ったことになる。

 ところで、銀行が預けた3万円を金庫に入れておいてくれたら良いのだが、すぐに企業の社長さんに貸し出されたらしい。その社長さんは一刻も早くそのお金を有効に使おうと、すぐ仕事を始められた。もちろん私が使うより社長さんが使う方が効率的だ。私なら3万円でセメントを何キロ買えるかわからないけれど、その社長さんなら私が買うセメントよりも多く買えるだろう。

 そうなると、銀行に3万円を預けるということは、私が使わず社長さんが使うだけだから、日本全体から見れば3万円が使われてしまうことには間違いない。しかも、まずいことに私はそのお金を6ヶ月後に引き出して、木曽川にドライブに行った。自分が貯めたお金だからなんとなく自分が使わないと損なような気がしたのだ。

 環境にもいろいろな意味があるが、おそらく二酸化炭素の排出量という意味で言えば、「環境に考えない生活」をしていた時は1ヶ月で30万円に相当する二酸化炭素を出していたのに、「環境にやさしい生活をしよう」と思ったがために、33万円分の二酸化炭素を出すことになったと、深く反省をしている。

つづく

環境ロマンスカー 1号車

 私たちのルーツは150億年前のビッグバンにある。

 でも、そう言ってもあらかたの同意を得ることはできないだろう。なぜなら、ビックバンは今から150億年も前のことだし、星も誕生していないし、ビッグバンから暫く経った後も温度は数億℃だった。そんな時代のことが現代の私たちに影響を及ぼすはずは無い、と誰もが考えるからである。

 新幹線で東京から大阪に行ったとしよう。その人は次に大阪から東京へ帰ってくる。東京から大阪に行ったらそのまま東京へ帰って来ることができないということは無い。もちろん、本人が大阪で恋人を見つけてそのまま生涯を送ることはあっても、東京へ帰りたいと思えば帰ることができる。

 それは「場所」(位置)というものが「やり直し」が効くからだ。東京から何回でも大阪に行くことができるし、東京の中でも渋谷に何回でも遊びに行くことができる。最初に渋谷に行った時、何が何だかわからずに帰って来ても、何回も渋谷に行く、つまり「やり直し」をすればそのうちに渋谷のことは隅から隅までわかるようになる。

 ところが時間というものはやり直しが効かない、今日から明日に行くと、明日から今日に帰って来ることはできない。今日から明日に行った場合は、次は必ず明後日だ。だから、今日やったことが不十分だったとして、次の日に反省しても今日に戻ってやり直すことができないのだ。

 つまり「時間」は「場所」と違ってやり直しが効かないから、時間を場所で例えれば、渋谷には一回しか行けないということになるし、大阪にも一回しか行くことができない。だから「日々新た」であって新しい時間には慣れることはできない。

 この「場所(位置)」と「時間」の関係はビッグバンで創り出された。一見して何も見えない暗黒の宇宙に突然、激しい爆発が起き、「何も無い」ところから「物質」が生まれ、突然、時間が動き出したのだ。その時間は「先へ先へ」と動き、決して元には戻ることが無かった。

 この激しい爆発をビッグバンと呼ぶのだが、その前に何があったかはわからない。人間の頭、現代の科学では「何も無いところから、ある時に爆発が起きて、物質ができ、時間が動き始めた」ということがわかっているだけである。いわば、科学版「創世記」である。

 私たちは五体満足であれば歩くことができるが、これは不思議なことである。歩くためには左足を前に出した後、右足を出さなければならない。右足を出し、次に左足を出して、それでやっと歩くことができる。

 このような動作が可能なのは「時間が先へ先へと進むから」に他ならない。突然、時間が止まったり、逆に動いたりすると足を前に出せなくなるので、転ぶか、何が何だかわからなくなるだろう。

 時間が先へ先へと進むということは、地球も動物も、そして人間も一回やったことを繰り返すことができず、慣れることも許されず、ただ先へ先へと行かざるを得ないことを示している。でも、それが進化の源でもあり、変化をもたらすものであった。そして現在の「環境」は「初めての経験」を繰り返しつつできあがり、その結果として、今、我々の前に存在する。

 私は時間が前にしか進まないことに深く感謝している。何しろ、少し前にやったことがどんなにまずくても、失敗しても、後戻りすることはできない。だから、失敗したら謝るしかないし、取り返しのつかないことが起こったら諦めるしかない。

 もし、時間が戻ったらどうなるだろうか?2月1日に取り返しのつかないひどいことが起こったとしよう。時間を1月31日に戻せるとしたら、その夜は思い出したくないほど苦しむだろう。

 この前、一回経験したあの苦痛、あの悔しさをもう一度味合わなければいけないのか!そう思って夜道を必死になって走る。もし、明日起こることを知らなければノンビリと夜のひとときを過ごしているだろうが、必死に走れば回避できると知った今では、どんなに辛くても走らなくてはならない。

 人間にとってそれは辛いことだ。そして走っても走っても結局、我が子の命を救うことができないと知った時、私は地面に伏し、どうしようもない絶望感のうちに暁を迎えるだろう。堅く冷たいコンクリート、寒風に吹き飛ばされる落ち葉がまとわりつく・・・

 私は高等学校の卒業式に呼ばれて祝辞を述べる時、時間というものの持つ意味を話すことがある。高校時代というものは、どの人にとってもほろ苦いものだ。それは成長過程の自我が悔やみを残すからだ。

「君たちは今日、高等学校を卒業する。喧嘩したことも憎んだ友達も、受験に失敗したこと、辛いことがあっただろう。でも、時間というのはそれを助けてくれる。時間は戻ってくれない。

 だから、喧嘩したこと、失敗した受験を忘れるのだ。時は戻らないから、忘れてしまえばその友達の顔は親しげに見える。失敗を忘れれば明日に向かって、新たな気持ちで生きることができる。過去は忘れよう!時間は追いかけてはこない」

つづく